最近、某団体が公表した意見書を読んで感じたこと。

その意見書では、「膨大な労力とコストをかけて作成された知的財産」(著作物)を、対価を払わずタダで生成AIに学習させることはけしからんという趣旨が述べられている。その著作物の学習には対価を支払うべきとする。そして理由はそれだけではないが、著作権法を改正すべきとする(学習行為とは無関係の条文に関連する事象を一括りにして、改正すべきとされている)。

確かに一定の労力・コストをかけて取得している商売のネタを、タダ取りされることに反発する気持ちはよく理解できる。著作物であろうがなかろうが、対価を設定して売っているものを、タダで持って行かれることは許容しがたいし、法による手当、救済もなされているだろう。著作物なら著作権の行使によって抑止でき、利用を認めることに対する対価を得られるが、AIの学習での利用は権利が制限されているから著作権を根拠に対価を得ることはできない。そのもどかしさからの意見ということなのだろうと想像する。さらに元の著作物と似たような表現を出力するという点に我慢がならないのだろう。

ただ、いわゆる情報へのアクセスや使用(読んだり、聞いたり、複製したり・・・)から対価を得ようとすれば、まずは契約を成り立たせるようにし、更に技術的に抑制して、対価を得られたところでアクセス、使用を許容するという方法を採るのが一般的だ(対価を得るためにはそうせざるを得ない)。契約を成立させるわけでもなく、誰でもがアクセスができるような状態に自ら情報を置いておいて、その情報を使用する人に対して、対価を払えという主張はよく理解できない。著作物かどうかに拘らず情報一般の取引と割り切って、対価を確保する術を工夫するしかないと思うのだが、どのような事情があるのだろう。個々のアクセスへの対価を得ようとするのではなく、情報を集約するデータベース一式を有償で販売するというのも、AI製作者がビジネス上の利点を見いだせれば取引として成り立ち得るだろう。誰でもアクセスして使用できるような体裁にしているのは、内容を世に広く知らしめるべき筋の著作物で、公共の利益のためにそうしているのだと言われれば頭が下がる(そうならそうで、AIの学習に使わせることで公共の利益に資すると考えることもできる?)。私のような卑しい人間は、そうすることで何等かの利益を得るというビジネスモデルではないのかと勘繰る。

言うまでもなく著作権法は、思想感情を創作的に表現したものを保護していて、それを生み出すのに要した労力やコストは、著作権の保護とは関係がない。まさかまさか・・・労力やコストを理由として保護されるように著作権法を改正せよということだろうか・・・ブツブツ。意見書の趣旨や事実関係を取り違えていたら、関係者の皆さんにお詫びする。

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July 24, 2024 • 11:22AM

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