「百年の孤独」ではなく安焼酎だったので悪酔いのせいか、孤独とAIについて考えているときに、孤独と信仰はどういう関係にあるのだろうかということに興味が至った。直感の域を出ないが、無縁ではなさそう。孤独によって絶望したときに、信仰があると救われるのだろうか。多宗教というか、却って無宗教というか、八百万の神が彼方此方におわすので、寺社仏閣やご先祖の墓参りはしても(般若心経を唱えても)、自分など罰当たりなことに、特定の神仏にすがることで心が救われるというふうにはあまり感じてこなかった。ちゃっかりとご利益に与ることしか考えていない。絶望的な孤独を感じた時に、すがる神仏があるとどうなのか。試しに何かに入信してみたい衝動にも駆られる。遠藤周作だったか、神が何も答えてくれないという小説があったような・・。

報道で、京都大学で研究されている「ブッダポット」を知った。「仏教経典を学習し、様々な悩みに対して宗教的観点から回答する対話型AI」だという。そしてChatGPT4を応用して「仏教経典の文言をそのまま提示したうえで、ユーザーの質問内容に即した解釈・追加説明を併せて生成して提示する」「ブッダポットプラス」へと進化したそうだ。それから1年以上が経っているので、更に進化しているに違いない。きっと悩み事を解決してくれることだろうとは思う。禅問答(公案)もできるのだろうか。AIの経典学習はいわば修行で、学習を終えたAIはさしずめ悟りを開いたことになるのか(笑)。そしてそれは信仰の対象となるだろうか。私には信仰がないからこそ、AIが神仏に取って代われるだろうかなどという妄言を吐いているのかもしれない。

先日、宮崎・高千穂にある天岩戸神社の神職の方に、面白い話を伺った。日本の神は自然(山、岩、海、川、木…)だったという。畏怖を感じたり奇跡と感じる対象だ。それがやがて人として解決できない次元の悩みを救ってくれるものとしての神を創造(想像?)し、多数の人が崇めることで信仰という形になってきた、そうした神は元は人間だという。アマテラスもそうだと。天の岩戸付近には、そういう人が住んでいたのだそうな。言われてみればなるほどキリストも釈迦も人間だ。弘法大師も。これらの人は奇跡を起こしたという伝承もあるが、菅原道真は祟りがあったから祭られた。徳川家康、東郷平八郎や乃木希典となると、実在した人であることは明らかだ。奇跡も祟りへの畏怖もないと思うのだが、偉業への崇拝か。30年近く前の忌まわしい記憶、テロを起こした教祖も人間だ。そしてついに、AIまでも信仰の対象となっていくのかもしれない。誰かのバイアスが掛かっているかもしれないというなら伝統的な神もあまり変わらない? 得体のしれないものへの畏怖というなら自然と同じ? 電源を切るといなくなる神だが、神になった人々も今はいないのだから、これも同じことか。結局は神とされる対象の周囲の人が祭り上げるということなのだろうが、AIだってあり得る。先にも書いたがAIに依存してしまうのは怖い。AIが全知である日は近いかもしれないと思うが、全能になって欲しくはない。

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