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SLN No. 78 (1998.11.20)

21世紀の知的財産権

―中山教授の工業所有権仲裁センターでの記念講演―

 本年3月26日、日本弁護士連合会弁理士会は、工業所有権仲裁センターを設立し、記念式典が催された。同センターは工業所有権を専門的に扱う仲裁機関として社会に貢献することが多いに期待されるところである。(電話3500-3793、FAX 3500-3839)
 本稿は、中山信弘東大教授が上記式典で記念講演された記録である。21世紀を迎える知的財産権の問題状況と指針が明らかにされている貴重な論考である。本稿はパテント誌10月号にも掲載されたが本誌にも転載を希望したところご快諾をいただいた。中山先生はもちろん、工業所有権仲裁センター、弁理士会日本弁護士連合会、パテント誌にも厚くお礼申し上げたい。また、同センターの発展を祈念するところである。

21世紀の知的財産権

東京大学法学部教授 中山信弘

 工業所有権仲裁センターの設立を心から祝福致します。順調な発展を期待致します。

このセンターは、工業所有権専門の仲裁センターで、それ以外の知的財産、例えば著作権法や不正競争防止法に特有な事件の仲裁は行わないようですが、21世紀においては、おそらく著作権法と工業所有権法あるいは不正競争防止法との差異は縮まり、それらを区別する必要性は減少すると思われます。そこで今日は、より広く、21世紀における知的財産権一般の話をしたいと思います。

 一般の仲裁機関は既に存在しているにも係わらず、工業所有権について、特に新たな仲裁機関を設けるということは、工業所有権を含む知的財産権が、他の通常の事件と異なった特色があることに起因していると思われます。従いまして、知的財産権についての原理論を考えるということは、仲裁センターを設けるについての基礎理論的なものと考えます。そこで、本日は、仲裁とは直接的には関連しませんが、21世紀に向けて知的財産権は、どのような位置づけになるのか、どのような特色をもつのか、ということを中心にお話をしたいと思います。

 21世紀における知的財産権の話をする前に、まず知的財産とはそもそも何か、という点を確認しておく必要があろうかと思います。

 知的財産権法とは、煎じ詰めれば、財産的情報の保護法である、と言えます。財産的情報の保護の方法につきましては、いくつかの態様が考えられます。現行の制度で言いますと、理念型としては、まず一般法として不正競争防止法があります。そして余り正確な表現ではありませんが、その特別法として、特許法や著作権法等の知的財産権法があります。確固たる保護法制としては後者が重要であり、それは、ある情報を物と類似なものとみなして、所有権類似の物権的な効果を与えるという保護方法です。

 特許法で見てみますと、それは技術的な情報を保護する制度です。本来的には、情報には、いわゆる『消費の排他性』がなく、原則として、誰でもが、どこででも使用できるという性質をもっています。つまり、ある情報をある人が使用していても、他の人は同時にその情報を使用することができます。その意味で、情報は公共財であり、倫理的な面は別として、元来、情報について模倣は自由ということになっています。従って、かつては、他人が開発した技術を模倣しても、法的問題はありませんでした。

 ただ、その情報の取得方法が不当であれば、その点は問題になりえますが、情報それ自体には独占ということはありません。情報というものは、他人に知られてしまえば、その使用を阻止できません。事実上、独占したければ、秘密にしておく以外に方法はないということになります。昔は、そのような情報は巻物にして一家相伝とし、門外不出とすることで守っておりました。

 しかし、秘密にしておくことが出来ない情報というものも多く存在します。特に、現在においては、商品を市場に置くことによって、秘密ではなくなってしまう技術情報が増加しており、そのような情報の中には極めて財産的価値の高いものも含まれております。情報は公共財であるとして、このような情報を法的に放置しておくと、せっかく新たに情報を創作しても、すぐに他人に模倣されてしまい、創作へのインセンティヴが失われます。そしてその結果、そのような状況のもとにおいては、情報は、財として機能しにくい、ということになります。つまり、模倣されない情報であるならば、財としての価値があるけれども、すぐ模倣されうるような情報は財としては、意味をなさない、ということになります。

 そこで産業経済の発展とともに、技術的情報を中心に、経済財として機能しうる情報、なかんずく秘匿できないような情報について法的に保護して欲しいという要求が強くなるのは当然のなりゆきです。資金や労力をかけて創作した情報につき、第三者によって無断で使用されてしまう、つまりフリーライドされてしまうようでは、ファースト・ランナーの犠牲においてセカンド・ランナーのみが利益を得るということになります。そのような状況の下とにおいては創作へのインセンティヴが失われ、そのことは産業発展にとって好ましくない、ということになります。そのため、ある種の情報についてはフリーライドを防止する必要があり、それが特許法や著作権法等の知的財産権法として具体化されました。逆に言えば、知的財産権法の設立により、始めて情報についての独占権が認められるようになりました。

 ただ注意すべきは、知的財産権法は、全てのフリーライドを禁止している訳ではないという点です。フリーライド(模倣)にはそれなりの効用があり、全てのフリーライドを禁止することは妥当ではないし、また出来ないことでもあります。

 発明であれ、学問であれ、われわれの行動のかなりの部分は模倣から成り立っております。模倣の上になにがしかの独創的部分を付加して、新たな創作活動としております。全くのゼロからの創作というものはありえません。

 模倣一般を禁止したのでは、社会は固定化し、発展はなくなってしまいますので、模倣一般を禁止することは妥当ではありません。江戸時代のように新規御法度という法制度のもとにおいても、実際は多くの発明もなされていたことを考えますと、模倣一般を禁止するということは、到底出来ることでもありません。そこで許されるフリーライドと、許されないフリーライドとの選別が必要となります。

 放置しておいても発展するような情報については、法によって特別に独占権を与える必要はありませんし、また独占権を与えることにより弊害の大きいものについても独占権を与える必要はありません。知的財産権法は、特に保護を必要とするような情報、言い換えれば保護することにより社会的厚生が増加するような情報について、特別に立法化すれば、必要にして十分であります。つまり、全ての情報を保護するということではなく、言い換えれば全ての情報についての模倣を禁止するということではなく、社会の必要に応じてパッチワーク的に立法化すべきであり、またそれが現在の知的財産権法の実情もそのようになっております。

 具体的な例を挙げれば、現在は、人の精神的な創作であっても、サービスそのものは保護されてはおりません。例えば、ホテルの接客方法は、いかに工夫されたものであっても、法的には保護されていません。他のホテルを視察して、良い点を採り入れても法的には問題がないということになります。ただ、接客方法をマニュアル化し、それを秘密とすることにより、営業秘密としての保護を受けることがあるのは別論です。

 その他にも、保護されていない精神的創作物はいくらでもあります。ピザの宅配というアイディア、商品の陳列方法、体操における新しい跳躍方法等々、枚挙にいとまがありません。このようなものについては、独占権を付与するより自由競争に任せた方が、その分野はより発展するであろうと予測される、言い換えれば保護が特に必要とされていない、というで理由で保護されていない訳です。いずれにせよ、知的財産権は、特に必要性の高い特別な情報についてのみ認められております。

 特に保護が必要なものについて保護するということは、現在は保護されてはいないが、社会情勢が変われば保護が必要となるものもありうる、ということを意味します。例えば、現在、データベースの中のデータの保護が世界的に議論の的になっていますが、つい最近までは、このようなデータ自体はファクト(事実)に過ぎず、これを保護して欲しいという要求はほとんどありませんでした。

 しかし、デジタル技術の発達により、データベースも発達し、そこに格納されるデータの収集・加工には多額の費用が必要となってまいりました。その反面、デジタルであるが故に、それへのフリーライド、この場合は複製(コピー)は極めて容易となるという状況が生じ、フリーライドを禁止しないと、データベースへの多額の投資が報われないという状況となり、それがデータベース保護への要求として世界的に盛り上がっている、というのが現状です。データベースへのフリーライドが防止されないと、21世紀において極めて重要となるであろうことが間違いないデータベースへの投資が減り、その分野の発展が期待できない、という状況があるとすれば、そのような立法が必要ということになります。

 このように、現在は法的保護がない、あるいは保護が曖昧なものであっても、21世紀には保護が必要となるかも知れない分野は、例えば、キャラクター、タイプフェイス、版面権(別名出版者の権利)等、他にもたくさんあります。(例 フォークロア、生物資源等)

 このように、知的財産権の外延に理論的な限界はなく、その守備範囲は時代の進展と共に、あるいは時代の要請によって変化するものであります。21世紀においては、社会がより複雑化し、それに伴い、知的財産権の物的な範囲が拡張するであろうことは容易に予想されますが、そのこと自体は、特に法的な問題があるということはなく、そのような拡張が妥当か否か、という点のみが問題となります。裏から言えば、知的財産権法制は、所有権法制とは異なり、かなり政策的色彩の濃いものであると言えます。

 ただ注意すべきは、知的財産権の外延を拡張するとしても、その範囲は、独占権がないと当該分野の発展を著しく阻害するものに限るべきだと思います。独占をさせなくとも、自然に発展することが予想される分野において知的財産権を成立させるということは、社会の技術等の発展を促すことがないだけでなく、そのような独占権を認めることにより、ある特定の者に不当な利益が蓄積されるという事態も予想されます。

 このように知的財産権の外延に理論的限界はありません。しかし、データベースのように、従来とは異質なものを知的財産権法に持ち込むことにより、知的財産権とは何かという理論的な枠組みが変化する可能性があり、学問的には、知的財産権の概念を巡り、理論的な検討が必要となるでしょう。

 より具体的に言えば、今までは、ごく若干の例外はあるものの、特許法や著作権法等の知的財産権は、人の精神的創作物を保護するという基本的な枠組みをもっておりました。従って、どんなに額に汗して作ったものであっても、つまり労力や資本を投下して作ったものであっても、それに創作性が認められなければ保護されることはありませんでした。

 例えば、アメリカの最高裁のFeist判決では、アルファベット順の電話帳は、どんなに金をかけ、労力をかけて作ったものであっても、創作性がないため、著作権法上は保護されない、と述べております。

 現在世界的に議論されているデータベースの中のデータ保護については、創作性は要求されず、専ら投下資本の保護の論理で貫かれています。このように単なる労働力言い換えれば『額の汗』を保護するということは、従来の知的財産権法のスキームからすると異例ではありますが、それが必要である限り、そのようなものを知的財産権法の枠内に取り込むことも必要となるかもしれません。

 今後は、情報の創作者だけではなく、情報の伝達者、あるいは仲介者等も、知的財産権法の分野に取り込まれるかもしれません。ただ、そうなると、先程述べましたように、知的財産権法とは、いかなる法であるのか、という統一した基礎理論の再構築が必要となるでしょう。あるいは知的という言葉自体も相応しくなくなるかもしれません。これは21世紀の知的財産権法学界に課せられた、困難な課題とも言えましょう。

 21世紀は、情報の重要性が増し、物の時代から、情報の時代へと変わるとも言われております。注意しなければならないのは、物の重要性がなくなるということではなく、21世紀においても物造りの重要性は変わらないであろうと思います。ただ、物と並行して情報が重要となり、情報の重要性が相対的に増す、ということです。

 いずれにせよ、21世紀において、情報が重要になることは間違いありません。それはデジタル技術によって支えられているところが大であると考えられます。デジタル技術が発達する前から情報の重要性は認識されていましたが、デジタル技術の発達により、その重要性は質的な変化を遂げたと言えるでしょう。

 デジタル技術は、単に、財産としての情報についてのみエポックメーキングな変化をもたらすというものではなく、情報一般について大変革をもたらし、社会を根本から変えてしまう可能性を秘めております。

 デジタルでは、全ての情報(具体的には、テクスト、音、静止画、動画)を0と1という一元的な方法で蓄積、加工処理、伝達することが可能となります。デジタル統合されることによって、従来、メディア毎に区分されていた産業(出版、新聞、レコード、放送等)も融合される可能性があります。また、今まで情報とは余り縁のなかったような業種が、この分野に新規参入することが容易となってきました。つまり、デジタルによる融合化現象が、あらゆる分野において見られるようになります。

 その反面、巨大な企業による情報の独占が容易になるという傾向も否定できません。そうなると、競争法的な問題も出て参りますが、競争法に全てを任せておくことは出来ないと考えられますので、情報関連法制においても、何らかの処置をせざるをえないと思われます。

 また、電子マネーや電子商取引で、取引の形自体が画期的に変化する可能性を秘めていますし、プライヴァシーや情報公開の問題についても、根本的に考え方を変える必要があるかもしれません。勿論、プライヴァシーや情報公開の問題は、デジタル技術の出現以前から存在しましたが、デジタル技術の出現で、その問題が格段と大きくなり、もはや質的な変換を遂げたとも言えます。現在のインターネットを通じてのプライヴァシー侵害は、従来のメディアを通じた侵害とは全く異なった形となって現れています。

 さらに、知的財産権の分野においては、情報の保護強化により、あるいはデジタル化に起因した情報寡占により、知る権利、学問の自由等々の近代法の基本的原理と抵触する事態の生ずる可能性もあります。従来、特定の情報につき、社会的・産業的要請の強い場合、特許法や著作権法等によって独占を認めてきましたが、特許法や著作権法においては、権利の例外・制限の規定があり、これら近代法の基本的原理と抵触しないような装置が設けられております(例えば、試験研究目的の実施には、特許権の効力は及ばない、とされており、大学での研究の多くはこれに該当する)。つまり、基本的には情報は自由に使用できるが、社会がどうしても必要とする場合にのみ、必要な範囲で独占を認めるという原則で、情報の保護法制が成立しています。

 従来の法制であれば、そのへんの調整を細かく行うことも可能でした。しかし、デジタル技術の発達により、あらゆる情報が統合されるため、情報の種類に応じた木目の細かい法規整が難しくなる傾向にあります。例えば、仮にデジタル情報のコピープロテクション解除や暗号解読を禁止するとした場合、それは権利ある情報も権利なき情報も一律に保護してしまう可能性があり、また情報のあらゆる使用形態(例えば、私的使用目的なのか、引用なのか、学問研究目的なのか等々)を規制してしまうおそれもあります。

 その上、デジタル技術の発展により情報コントロールの技術も発達し、その技術的裏付けがあるため、知的財産権法の規整を、契約により事実上外すことも可能となって参りました。このような技術の発展を念頭に置いて、今後は、情報の保護強化という要請と、知る権利や学問の自由等の要請との調和点を探る努力も必要となりましょう。

 知的財産権制度も、このような大きな流れの中で、デジタル技術に即応した制度設計をしてゆく必要があると思われます。

 現在、われわれが経験しているこの大きな変化が、21世紀の知的財産権にどのような具体的変革を与えるのか、ということを正確に指摘することは、私の能力を超える問題で、今後を予測することはできません。

 しかしながら、いずれにしても、21世紀の情報化時代においては、情報の有する価値が格段に増大します。価値のある財については当然侵害も多発し、そうなると知的財産権法の拡張と共に、その強化への要求が強まるのは当然です。それは現存する法律を強化する場合もあり、また新たな立法をする場合もあります。いずれにせよ、時代の進展と共に、質量ともに強化される傾向にあることは確かで、このことは、世上プロパテントという標語で語られています。今、科学技術創造立国ということが盛んに言われておりますが、これも知的財産制度の強化をその基礎としております。

 反面、知的財産権はただ強化すればよいというものではありません。知的財産権は、情報の独占権ですから、独占に伴う弊害の生ずることが予想されます。情報の独占は、物の独占より、弊害が甚大である場合も多いと予想されます。このような問題は、知的財産権法の扱う問題ではなく、競争法の分野で扱えば十分であるという考え方もあるかもしれません。しかし、知的財産権法自体がかなり政策的要素の強い法であり、その制度設計に当たっては、競争法的な要素も加味してなされるべきであると考えます。権利者と社会一般の利益の調和、つまり創作ヘのインセンティヴを確保しつつ社会の発展を阻害しない調和点を模索すべきであります。

 方向性として言えることは、保護の強化と抑制という二つの対立軸を常に念頭に置き、制度設計を進めてゆく必要があると考えます。知的財産法については、ややもすると特定の業界団体の強い要請により法改正や立法が進む場合も少なくありませんが、制度設計に際しては、常に声なき声を聞き、公益的観点からの利益考量が必要となります。つまり、情報の模倣禁止は、必要な範囲で行うということが肝要であり、行き過ぎは戒めなければなりません。

 ただ、保護の必要性とは、単に国内からの内在的な要請だけではなく、常に国際的な視野に立った制度設計にも心がける必要があります。その意味で、難しい問題もありますが、いずれにせよ、必要な範囲内での保護ということを忘れてはならないと思います。

 他方、保護が必要なものについては、その実効性ある制度を積極的に確保すべきであります。ザル法や名ばかりの権利というものは、法に対する意識の弛緩を招き、モラルハザードをもたらします。

 つまり、保護の範囲が適正であることが肝要であるが、必要なものについては、権利の取得、行使の両面にわたっての実効性を追及すべきであります。このような基本的態度で、21世紀の知的財産法の整備を行うべきと思います。